ヒンドゥー・ナショナリズム

インドの急進派グループ、「バレンタインデーを祝う者は攻撃する」と警告
2009年02月05日 03:07 発信地:ニューデリー/インド
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2567517/3753380


【2月5日 AFP】インド・ヒンズー教徒の急進派グループ「Sri Ram Sena」は、道徳向上キャンペーンの一環として、来る14日にバレンタインデー(Valentine's Day)を祝うカップルは例外なく襲撃すると警告している。3日のタイムズ・オブ・インディア(Times of India)紙が報じた。

同団体の活動家らは前月末、南部マンガロール(Mangalore)のバーに押し入り、「ふらちに振る舞っている」として複数の女性客に暴力を振るった。

 彼らが現在目を光らせているのは、14日のバレンタインデーだ。同団体は、バレンタインデーを祝う行為は「反インド的」であり品行不良を招く結果にもなると警告している。同紙に対し、団体創始者のプラモド・ムタリク(Pramod Mutalik)氏は「バレンタインデーのいかなる祝福をもわれわれは容認しない」と語り、ある幹部は「われわれは警告を無視した者を必ず攻撃する」と断言した。

 同団体は「インド文化の守護者」を掲げており、女性の品行、異教徒間の恋愛、改宗、「西洋化」と認められる事柄などを攻撃の対象にしている。また、今回バーで攻撃した女性たちを「正しい道に戻す必要があった」と主張している。(c)AFP

非モテの話ではなく、ヒンドゥーナショナリズム
インドの庶民に広がるこの排他的ナショナリズム中島岳志著の「インドの時代」「ヒンドゥーナショナリズム」に詳しい。

「インドの時代」によると

このようなヒンドゥーナショナリストのバレンタイン・デー反対キャンペーンの際に、ビラとして大量に配られたのが図15である。

ここには「低俗なセックスの表示こそが、西洋から東洋にエイズをもたらした。今こそそれを止めるべきだ!」と書かれており、バレンタインデーのような習慣をインド社会から駆逐すべきことが訴えられている。

ヒンドゥーナショナリストの間では、「(1)西洋文化流入がインド社会における性の乱れを誘発し、(2)エイズが蔓延する事態に陥った。(3)だから西洋的習慣をインド社会から駆逐すべき」という単純化された論法が定式化している。

もちろんヒンドゥーナショナリストの運動はもちろんバレンタイン・デーだけのものではありません。

ヒンドゥーナショナリストの巧みな点は、ヒンドゥー的価値の回復を主張したり、様々な魅力のある活動を展開したりするだけでなく、その時々の状況に応じて非難のターゲットとする明確な敵を(影に陽に)提示し、自分たちこそが様々な被害者であることを訴えてることにある。
 現在のような倫理規範から逸脱した社会を作り上げ、ヒンドゥーの「ダルマ」を汚すものとして、ムスリムやクリスチャン、世俗主義者、マルキスト、旧植民地当事者、パキスタン、外国資本などが状況に応じて吊るし上げられ、彼らこそが現在のインドにおける様々な苦境を招き、ヒンドゥーが享受できるはずの秩序や権利を阻害している張本人たちであると感情的に訴える。 そこでは、主張を支える科学的史実や論理的根拠はほとんど提示されず、人々のアモルフ(不定形)な感情を掴むための巧妙なレトリックとキャッチコピー化された軽薄な言葉の群れだけが羅列されている。


「インドの時代」を読んだ私の感想は「日本とそっくり!」でした。 本屋で見かけて「あ、インドの本♪」と日本とは違うインドのことが書かれてあるだろうと思って読み始めて、思いっきり裏切られました。 インドにはタージマハールがイスラム建築ではなくヒンズーの寺だと主張する歴史修正主義者だっているんです。http://en.wikipedia.org/wiki/Taj_Mahal_%E2%80%94_The_True_Story#Taj_Mahal_and_other_medieval_Islamic_monuments



バレンタインデーを祝うカップルは例外なく襲撃するとしたグループは「道徳」という言葉を使いました。
彼らは正しいことをしていると思っているのです。 
道徳という言葉の恐ろしさ!


中島岳志氏はヒンドゥーナショナリストのグループと一時期生活を共にし、彼らが「いい人」であることを書いています。 そのいい人たちが集団になり、仮想敵に対した時・・・悲劇が起こります。

日本では宗教が前面に出ることはありませんが、単純化した悪である仮想敵を叩くのはヒンドゥーナショナリズム全く同じです。

人は本能的に異質者を嫌い、排除しようとします。 その欲望を「彼らが悪である」として自分を正当化することで誤魔化そうとします。
私たちが出来ることはその欲望に自覚的であること。 
その自覚を失い自分たちが正義だ、絶対的な善だ、と言い張ったとき不幸が起こります。