ふつうであることは善であるという道徳

多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。

 多数派は、にげる。多数派には主体がない。名前を もたないから。いち個人で いられるからだ。多数派は、「わたし」でしかない。けれども、名前のある少数派を 非難するとき、多数派は、みずからの集団意識に であうことになる。ほんのすこし。ほんのすこしだけ。その名前は、「日本人」。

 日本人とは、国籍を さすのか。民族性を さすのか。文化か。言語か。血液か。どれでもない! すべてを うやむやにした「日本人」なのだ。あいまいな、自由な日本人なのだ。

 なかには、その名前に、さらに あいまいな ことばを つけたす ひともいる。そう。「ふつうの日本人」。

 「ふつうの日本人」に にげこむ ひとたちに、質問しつづけよう。かんがえよう。かんがえさせよう。名前を うけとめ、責任を ひきうけ、自分の特権を あきらかにし、内側から「顔のない集団主義」を 解体しよう。


 だれでもない立場に にげこむことなく、歴史と責任を せおった集団の一部として、関係を むすびなおす努力をしよう。


顔のない集団主義に逃げ込むのは、人の根本的欲望なんでしょうか。

多数派に逃げ込もうとするのは、民族集団だけではないでしょう。

世間を騒がすような犯罪が起これば、犯人は少数派に集団にカテゴライズされます。 在日外国人、少年、派遣社員、障害者、オタク、金持ちなど。 
常に自分が属する多数派と違う少数派の集団に問題を押し付けることで安心すると傾向があると思います。

私の母は何かを批判するときに必ず「普通はxxなのに」と言います。 派遣村の報道では「普通は貯金してるだろうに」と言い、殺人の報道なら「普通ならそんなことしないのに」と言います。 彼女は無意識に「普通」という単語を使いますが、それは彼女が普通であること(多数派であること)を善とし、少数派であることを悪とする道徳観を持っていることを示していると思います。 もちろんこういう傾向は私の母だけではなく、私にもあるし、周りの人すべてにあると感じます。

多数派であること平均的であることを道徳的に善と規定したいなら、相対的に少数派が悪であると思いたい心理が発生してくるのではないでしょうか。
差別はなくならないと思います。 多数派の中で平均人であることは、もっとも安全で安定した方法ですから。

人は弱いから「名前を うけとめ、責任を ひきうけ、自分の特権を あきらかにし、内側から「顔のない集団主義」を 解体しよう」といっても無理だと思います。 弱い人間は顔のない集団主義を形成し、責任を回避して生きてきたのですから。


それでも現在の日本では(そして世界の多くの地域で)差別はいけないという共通認識があります。 それは人々が知恵を積み重ねた結果、差別が個人にも社会にも不利益をもたらすことが分かってきたからでしょう。 

答えは出ないと思います。私は集団主義の利点を失ってでも、少数派を差別し排除しない社会の方を目指すべきだと思うのですが。