ふつう(マジョリティ)であろうとする差別

小学校襲撃事件について  猿虎日記(さるとらにっき)
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20091218/p1

私がいいたいのは、〈小学校を襲撃するのはどう考えても悪い〉ということ、〈そのことにほとんど無関心な日本社会はどう考えてもおかしい〉ということ、朝鮮人差別、そして今回の差別襲撃が悪いのは、「理由」を説明するようなことではなくて明らかであること、「理由はどうあれ不法占拠はいけない」などという声が明らかな差別の前で大手を振ってまかり通っているのはどうかんがえてもおかしいということ、これが日本社会の「あたりまえだ」などとうそぶく声にだまされてはいけない、ということ、「王様ははだかだ」と言っているつもりの人の方がすっぱだかであること、そうしたことは誰でもわかるはずだ、ということです。そうしたことを、今はあえて素朴に叫ぶべきと思います。


私を含めて人は弱い。だから群れの中で目立たぬように普通=マジョリティとして暮らすことを望みます。

自分がマジョリティに属している安心感を持つために、また周囲(属するコミュニティ)に自分がマジョリティだと認識してもらうために、相対的なマイノリティの存在が必要になります。

たとえば私の母が何かを批判するとき「普通はXXなのに!」と"普通"という言葉をよく使います。 このとき母は普通=正義・正しいこととして"普通"という言葉を使うのです。普通でないことは悪く、普通である自分は良いと無意識的に自分を肯定しているんです。 例として私の母に登場してもらったんですが、こういう傾向は私にも多くの人にもあると思います。

特殊な能力や力のないほとんどの人は、マジョリティとして群れの中にまぎれなければ生きていけません。 群れの中にいることを確認するためには群れの外の存在が必要です。 そして群れの中の自分を肯定するために、群れの外の人たちを否定するのです。 

私は社会がある限り差別は存在すると思います。 人々が群れて生きている限り、群れの外が存在するのですから。 すなわち私たち全員が差別主義者であるということです。 

在特会などの排外主義的行動に出る人たちは、常に自分たちが被害者だと主張します。こういう意識を持つということは、彼ら何らかの差別を受けているのではないでしょうか? たとえば非正規雇用だとあからさまに「差別」する人たちは少なくありません。

そして彼らはその差別と戦うよりも差別対象の線の引き直しを望むのではないでしょうか? 日本人か外国人かで線引きをすると、自分たちは日本人という普通でマジョリティの仲間入りができると。 日本人かどうかで差別することはとても容易です。 なぜなら日本人として生まれた限り日本人でなくなるという可能性はほぼゼロで、自分が被差別対象に決してならないから、安心して外国籍の人を差別できるのです。

在特会の主張は(行動はともかくとして)突拍子のないこどではありません。日本の社会に差別を、あからさまではなくとも、肯定する空気が流れています。 

人は弱い。だから群れたがる。そして群れを保つために、群れの外のいけにえが必要になります。
解決策は分かりません。 人がもっとマッチョになって群れに依存することがなく、個人として生きていければ差別はなくなるかもしれません。
現在では完全に差別をなくすことは難しいでしょう。

でも私たちは知恵をつけてきたんだから、もうちょっとマッチョになってもいいかもしれません。というかマッチョになるべきです。
民族とか国籍とかそのほかいかなる差別にも、群れの中で安心して群れの外への攻撃を無関心という形で賛同しないこと。 それがマッチョになるってことです。 眉をひそめるだけでいい。そうすれば社会は少し変わると思います*1。 

*1:もちろん在特会などの行動はすでに誰かの生活を脅かしており、悠長なことを言っていられる状態ではないので、短期的には警察の取り締まりが必要となると考えます