派遣村: 情は必ず誰かを排除する?

■派遣村を叩いてるのは多分貧乏な下流の連中だよ
うちのオヤジ、茨城で自営業やっててさ、つーか社員オヤジ一人とかで収入は200万くらいで、そんで最近ガンで死んだの。

早くに病院にいけば何とかなったのに自営業だから休みが取れないとか、入院することにでもなったら仕事が滞るとかいっていかずにいて、

結局運び込まれたときには大腸レベル4。転移しまくり。58で死んだ。

 

で、おかんが清掃業で働いて卒業まであと少しの俺の生活費を払ってくれてるわけなんだけど、派遣村ダイッキライだね。

いきなり「一般論」とかいって完全な偏見垂れ流し。どうせあいつら将来のことも考えずに、今は自由でいたいからなんていって派遣になったんだろ、なんつって。

■俺が派遣村叩きを直感的に嫌がったのは、死んだ自営業のおとんを責めたくなかったから http://anond.hatelabo.jp/20090112165017の、まあどうでもいい追記ね。

 

おかんはおとんと自分が可哀想だと思ったから派遣村を叩いたのだけれど、

俺は多分無意識に、おとんとおかんを擁護したいが為に派遣村叩きを嫌がったのだと思う。


まずこの増田さんによる2つのエントリーから理解できるのは、増田さんも「おかん」も「おとん」を愛していることです。

その愛の形が違いました。 その違いをうまく定義できなくてもやもやしていたんですが、今日 「1995年―未了の問題圏」という本を読んで理解できたような気がしました。

この本では社会哲学者の中西新太郎先生が、1995年の日本の「断点」を当時20歳前後だった人たちと対談により、当時を検証しています。
その対談相手の一人が杉田俊介さんで、彼は中西先生とサブカルから90年代以降の世相を読み解くような対談をされていたのですが、あとがき(のようなもの?)で小林よしのり戦争論に触れて

小林の「戦争論」を支えている論理は何だったのか。情である。いっけん傲慢な尊大さにもかかわらず、小林のマンガのなかには被差別部落の人々・薬害エイズ被害者・日本兵などの「虐げられた者への眼差し」が、弱者への情が、脈々と見られる。

しかし、杉田俊介さんは続いてこう書いています。

しかし「戦争論」ばかりか「脱正義論」の段階で、すでに、小林の「個」には、ある種の限界と弱さがふくまれていた。特定の対象(日本人やその英霊)の情を英雄視し、それ以外の人々(「アジア諸国民」や非国民)の情を軽んじている、情は必ず誰かを排除する、というだけではない。人は情ゆえに非情になれる、という暴力のからくりを言いたいだけでもない。 小林の情が誰かを真剣に愛し哀悼する時、その時にこそ、その対象となる誰かの情の多様性を消し去ってしまうことが、最大の罠であり、歴史の抹消なのだ。


増田さんのお母様の場合、お父様への情が派遣村に集まった人を排除したい気持ちが出たのではないでしょうか。
そして増田さんは、お父様への情と同時に派遣村の人たちにも情を感じ(それは年代的に派遣として働く人は遠い存在ではないから?)、お母様の持つ派遣村叩きの気持ちを排除したかったような気がします。

「その対象となる誰かの情の多様性を消し去って」しまったんですね。

多くの人はそれほど立派ではないですから、何かを肯定するとき、比較として否定するものを欲しがるように思います。
ネット右翼と呼ばれる人たちが、日本人を肯定したいとき韓国人や中国人を否定したり、サヨクがウヨクを否定したりします。

そういった意味で派遣村に関する「バッシング」と「反バッシング」はわかりやすい対立だったのではないでしょうか。 情を感じるかどうか。 情がない相手にいくら理論で説明しても無意味です。 わたしも増田さんと同じ家庭内闘争をやりましたが、まったく解り合えませんでした。 まあ、ウチの場合は母が肯定したいのは自分自身だったのですが。

給食費未払いバッシングだって、給食費を払ってくれた親もしくは子どもの給食費を払った自分を肯定するために、給食費を払わない親を否定しなければなりませんでした。 給食費を払わない原因の多くが貧困であっただろうにも関わらず、「高級外車を乗り回しパチンコをする親」のようなベタな像が出回ったのは、情を感じず排除するために必要な言い訳だったのかもしれません。


情って人間の根本的な感情にも関わらず、けっこう危険なものですね。 多数派の人が情を感じないものが排除されていくとすると、マイノリティ(外国人、障害者、同性愛者など)が社会から排除される結果になってしまいます。 たとえば「日本人の美徳」を語る時「非日本人の醜さ」が必要になるような。 

誰かを排除しない情が持てればいいのですが。 あー私は修行が足りません。