みんなが差別を嫌えば特定の暴力は減らせると思う

僕が差別と戦って、それで暴力が無くなりますか?

 この世にはクズがいます。クズはどうしたってクズです。僕がいくら自己批判と反省と真剣な思考と不断の実践にリソースを注ぎ込もうが、クズはクズのまま在り続け、クズとして暴力を振るい続けます。だからこそ暴力装置が要請される。国家は言います。「君はクズのまま生きてもよい。ただし、ここに示したラインを踏み越えた場合にはペナルティを与える」。これが思想・良心の自由であり、罪刑法定主義です。実に最高です。足を向けては寝られません。


クズはどうしたってクズで、暴力をふるい続けるのでしょうか?

例をひとつ挙げてみたいと思います。

関東大震災阪神淡路大震災です。
1923年の関東大震災では、朝鮮人などの虐殺が起こりました。
1995年の阪神淡路大震災では、虐殺が起こらないどころか、日本人も外国人も助け合いました。


神戸に住んでいる知人の中国人は、地震が起こったとき関東大震災での話を聞いていたので怖かったそうです。しかし実際には日本語の不自由な彼に周りの人はとても親切にしてくれたそうです。


震災の時に神戸で助け合った人たちは、警察に逮捕されるのが怖いから、外国人に暴力を振るわなかったわけでも、親切にしたわけでもないですよね?
社会が変わったんです。 社会が変わったということは、社会を構成するひとりひとりの意識が変わったんです。
そして防ぐことができる暴力があります。


もし日本社会が彼らの排外的な主張に嫌悪感を十分に示していたら、在特会は暴力を行う大義を持つことはなかったのではないでしょうか。


ナチスユダヤ人虐殺も、ルワンダの大量虐殺も、一部のクズが起こしたものではないでしょう。 彼らだって違う社会で生きていたら、良き市民として生活していたかもしれません。