多様な価値観を認める社会は、単一の価値観しか認めない人々の価値観を認めない。

サンデル教授は「これからの「正義」の話をしよう」の中で、アリストテレスの政治哲学の中心は以下の2つの観念であると書いています。

1. 正義は目的にかかわる。正しさを定義するには、問題となる社会的営みの「目的因テロス (目的・最終目標・本質)」を知らなければならない。

2. 正義は名誉にかかわる。ある営みの目的因について考える―あるいは論じる―ことは、少なくとも部分的には、その営みが称賛し、報いを与える美徳は何かを考え、論じることである。


ケイシーマーティンのゴルフカートの例では、足に障害があるケイシーマーティンにコース間の移動でカートを使うことを許可すべきか否かという論争を取り上げます。裁判になり、ゴルフ界の大御所も意見を求められます。 ジャック・ニコラウスやアーノルド・パーマーなどの大御所らはカートの使用禁止に賛成するのです。
なぜでしょうか?  ゴルフがスポーツであると考え、その名誉にこだわる人にとっては、カートの使用は「名誉を減ずる」ことになるのです。


ほかの例として、サンデル教授は同性婚に関する論争を挙げています。

同性婚をめぐる論争は、本質的に、ゲイ同士やレズビアン同士の結びつきが名誉と承認に値するか否かをめぐる論争だ。

ほかの言い方をすれば、同性愛者が異性愛者と同じ「結婚」を認められることによって、異性愛者同士の結婚の名誉が減らされると感じるのです。

リベラルな人にとっては、同性婚を許可したところで、同性婚が強制されるわけではないので、選択肢が増えることはいいじゃないかと考えるでしょう。 誰も損はしないのですから。 だから反対している人の気持ちが分からないと主張します。 不妊の人の結婚を認める限り、結婚の目的は生殖のみではないのだから、同性婚でもいいじゃないかと。


たまたま見つけた同性婚に反対するプロテスタントのキリスト教信者のブログでは、同性愛者は心理障害という病気であるから結婚を認めるべきではないという意見が書かれています。
病気である同性愛者が、正常であり正しいマジョリティの自分たち異性愛者と同じ結婚という制度で同様に扱われるのが腹立たしいようです。 それ以上にこのブログ主の心を揺さぶるのは、「自分は(自然であり、マジョリティであるから)絶対的に正しい」という価値観を社会が認めなくなる恐怖のようです。

ブログ主はこう書きます。

ブッシュ元大統領は、同性婚に反対の立場を取っていました。その理由を聞かれて、確か「結婚は男と女がするものだから」と答えていたという記憶があります。ものすごく単純ですが、これが自然であり、真理です。でも、マスコミの反応は「バカじゃないか」というような感じだったと思います。私はその光景をテレビで観て、やりきれない思いがしました。愚かな政治家というレッテルを貼られてしまったあとでは、正しいことを言っても、バカにされて終わりです。

ブログ主の言うとおり、多様な価値観を認める社会は、「私は絶対に正しい。ゆえに、ほかの価値観は認められるべきではない」という価値観を否定し、バカにするのです。 (私がこのブログを読んで、自分の「正しいこと」は絶対的だと考えるブログ主をバカにする気持ちを持ったことは否定しません)


日本での選択的夫婦別姓の論争でも、世論は2つにわかれているようです。 
選択的夫婦別姓反対の人の心理を東北大教授・沼崎一郎先生はこう解説します。http://togetter.com/li/35287

みんな同じで、みんなが「あたりまえ、ふつう」と思うことが自分にとっても「あたりまえ、ふつう」で、ほっと一安心というのが、素朴なコミュニタリアン。みんな違って、それぞれ好き勝手なんてことを認めたら社会が崩壊する! なぜなら、何が「あたりまえ、ふつう」か分からなくなって混乱するから。


「あたりまえ、ふつう」以外を認めるということは、「あたりまえ、ふつう」が絶対的に正しくて、他の価値観を認めないという価値観を否定するということでしょうか。

2003年に実施された世論調査の結果をみると、男女とも年齢が高いほど、選択的夫婦別姓に反対してることがよくわかります。
http://www8.cao.go.jp/survey/h13/fuufu/2-9.html


高齢の方は将来的に結婚を考えている人は少ないはずです。 だから選択的夫婦別姓は自分たちに影響しないはず・・なのに反対?

ご高齢の方にとって、違う価値観、新しい価値観が認められるということは、自分たちが称えられるべき名誉、イエを守った・配偶者の姓に変える犠牲をはらったなど、の価値がなくなる恐怖を感じるのではないでしょうか。
その上、人の自由を妨害する心の狭い奴、なんて批判されるんだから、たまったものではないでしょう。 


サンデル教授はコミュニタリアンの立場から、それでも議論を続け、共通善を見つける努力をすべきだと主張します。
しかし、私はサンデル教授の主張は、結局は多数派が少数者をやりこめることを正当化するだけではないかと考えます。

共通善を見つけようとする限り、負けるのは少数者なのですから。