単一の価値観を持ちたい人と、多様な価値観を持ちたい人

たとえば、私が金髪に髪を染めたいとします。私の母は確実に反対するでしょう。 

彼女が反対するときの言葉は簡単に想像できます。 「ふつう」「みんな」「マナー」「常識」なんて言葉が並ぶでしょう。 

人工的に髪を染めることを彼女は悪だと思っているのではありません。彼女は白髪を染めています。 髪を人工的に染めるのが善か悪かではなく、普通でないことが悪い。 

「あたりまえ、ふつうであることが正義」という考える人と、「多様な価値観を認めることが正義」と考える人との議論は永遠に平行線をたどります。

リベラルな人なら言うでしょう。 髪の色が何色でも誰にも迷惑はかけない。好きな色にすればいい、と。


コミュニタリアンのサンデル教授なら、なんと言うでしょうか?

「自由であるために金髪にしたい」なんて言い分なら、サンデル教授は認めないと思います。

なぜなら、「髪の色を金色にしたい」もしくは「好きな色に髪を染めていい」と考えたのは私ひとりの自由な意志ではなく、社会やコミュニティに影響されているはずだし、「髪の色は金色にしてはいけない」という母の意見も母のオリジナルな考えではなく、彼女の属するコミュニティに影響された意見だから。 

「髪の色は自由であるべき」も「髪の色は統一されるべき」と同じく、社会・コミュニティから自由ではないようです。